甲子園と言えば夏の高校野球に、春の選抜大会と高校球児にとって憧れの舞台です。
県大会を制したチームだけが来ることが出来る甲子園は非常に狭き門です。
そんな甲子園で毎年全国大会をしている訳ですが、負けたチームが甲子園の土を持って帰っている姿が良く見られます。
今では当たり前になっている光景でもあります。
なぜ、甲子園の土を持って帰るのでしょうか。
いつ頃甲子園の土を持って帰る風習がついたのでしょうか。
持って帰った後、その土はどうしているのでしょうか。
今回は気になる甲子園の土に関してまとめてみました。
甲子園の土について
甲子園の土はブレンドして作られている
甲子園の土を作っているのは『阪神園芸』という会社になります。
甲子園球場の土には黒い土が使われていますが、これが黒土だけだと細か過ぎるので固まりすぎて校庭のような状態になってしまいます。
そこで黒土と砂をおよそ半分づつ混ぜたものを約30cmの厚みで敷き均しています。
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ブレンドしている土について
黒土の産地
岡山県日本原、三重県鈴鹿市、鹿児島県鹿屋、大分県大野郡三重町、鳥取県大山 などの土をブレンドしています。
砂の産地
甲子園浜及び香櫨園浜社有地 ~ 瀬戸内海産の砂浜 ~ 中国福建省
黒土と砂の割合
春は雨が多いため砂を多めに、夏はボールを見やすくするために黒土を多くブレンドしています。
春と夏で土の状態が違う管理が出来ているなんてすごいです。
甲子園の土を持ち帰る事について
土を持ち帰る風習と理由
甲子園に出場し負けたチームが土を持って帰る姿はテレビ放送などで見た事があると思います。
今では当たり前の姿となっていますが、いつからこの風習ができたのでしょうか。
実はこれが始まりではないかと言われている説が3つあります。
- 1937年の第23回大会で、決勝戦で敗れて準優勝に終わった熊本工業の投手だった川上哲治選手がユニフォームのポケットに入れて持ち帰った。
- 1946年の第28回大会では、準決勝にて敗れた東京高等師範附属中の佐々木迪夫監督が、最上級生以外の選手達に各ポジションの土を手ぬぐいに包んで持ち帰らせた。
- 1949年の第31回大会で、準々決勝で敗れた小倉北のエース福嶋一雄選手が無意識に足元の土を摘んでズボンの後ろポケットに入れた。
どの説が始まりなのかは分かっていませんが、1937年の第23回大会で川上哲治選手が持ち帰った説が一番可能性が高いとされています。
甲子園の土を持ち帰る一番の理由は「生涯の思い出」にしたいからです。
甲子園は高校球児全員が来ることが出来る訳ではありません。
全国の高校球児が目指した甲子園では、甲子園に来れなかった人の方が圧倒的に多いです。
やはり思い出として何か形あるものを残したいと、甲子園の土を持ち帰るのです。
旅行や学校の行事で、友達と写真を撮ったり、産地の物を思い出として購入したりすると思います。
甲子園の土を持ち帰ると言うのはそれと同じような感覚なのです。
持ち帰った土はどうしているのか
甲子園の土を持って帰った人達は、その土をどうしているのか気になる所です。
実際どうしているのか調べてみた所、
- 自分のグラウンドに撒く
- 思い出の品として保管する
- 友人・知人に分ける
としている人が多い事がわかりました。
甲子園に出場できるのはごくわずかな高校生だけです。
非常に価値のある思い出の品となるので、大切に保管しておきたい所です。
甲子園の土についてのまとめ
甲子園の土は黒土と砂をブレンドされて作られています。
黒土も砂も各産地から取り入れているため、良い土を使用しています。
甲子園の土を持ち帰る風習は今では当たり前ですが、この風習が始まって少なくても70年以上経っている事が分かりました。
すでにかなり長い歴史になっています。
全国の高校球児が目指して、多くの人が来れないのが甲子園です。
甲子園の土を持ち帰る事ができるのはごくわずかな高校球児のみです。
非常に価値が高く、良い思い出の品になると思います。
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